2022年2月6日日曜日

京都幕末史跡巡り

幕末の主な舞台となった京都を巡る。
まずは、新鮮組の屯所や訓練所があった壬生寺。確たる主もない浪人集団だった後の新選組を雇ったのは、そのころ、京都守護職についた会津藩。その会津藩からもらった名前は、壬生浪士組であった。壬生浪士組時代は、近藤勇を代表とする天然理心流の門下生一派の他、水戸浪士派の2つ派閥があった。派閥争いに敗れ、水戸出身の隊員は粛清され、新選組となる。いつか世に出ることを夢見て、この壬生寺で訓練を重ねていた。

新選組が屯所にしていた旧前川邸。

 新選組の名前を世に知らしめた池田屋事変。現在は、居酒屋となっている。

 池田屋事変は、幕府を敵とする勤皇派の代表格、長州藩の志士たちが池田屋で京都焼き討ちの作戦会議をしていたところを新選組に襲撃された。壬生浪士組時代は、京都では嫌われ者だった新選組は、この事件で、京都を救った英雄となる。
 この時、新選組は、三条大橋付近で長州藩が会合を開いているという漠然とした情報しかなく、戦力を分散させて調査していた。池田屋に踏み込んだ時は、少ない人数であったが、日ごろの鍛錬により、勝利を得たとされる。(近年の研究では、池田屋に集結した長州藩に戦意はなく、酒を飲んでいたところを襲撃されたため、新選組は勝利を収めたという見解もある)。

 この池田屋事変で多くの同志を失い、追い詰められた長州は、武力をもって藩主の朝敵の汚名を晴らすべく、嘆願書をもって御所に攻め入った(禁門の変)
 薩摩との主戦場になった蛤御門には、今も銃弾の後が残る。

新選組を擁し、一時は京都での勢力を伸ばしていた会津藩だが、薩摩と長州が同盟を組んだ倒幕の流れには逆らず、京都伏見での敗戦をきっかけに、京都を去ることに。
黒谷には、そんな会津藩士を弔った寺(金戒光明寺)がある。この黒谷は、幕府安泰のために京都の守護が重要と考えた家康が直轄地、二条城の警護のために全体を見渡せる黒谷に築いた自然の要塞であり、京都守護職についた会津藩の宿陣であった。この黒谷と新選組の屯所があった壬生とは、頻繁に連絡をとっていたとされる。


幕府の直轄でも二条城。二条城は、幕末においては、大政奉還の舞台で有名。