幕末に目覚めてから、一度は訪れたいと思っていた会津若松にやっと行く事ができた。
会津若松、白虎隊の悲劇、会津藩家老 西郷頼母の家族の覚悟、新撰組 斎藤一などなど、山ほど見るべきところがある。
まずは有名どころの白虎隊から。
会津若松駅から徒歩約30分のところに飯盛山。燃えているお城とともにと少年隊である白虎隊が自決した場所だ。実際は燃えていたのは城ではなく、城下町の火だった訳で、もっと確認しろよと言いたくなるが、実際に飯盛山から見てみると城はほとんど見えず、勘違いしても仕方がない。
新政府軍が会津に攻め込んで来るので、籠城のため、城へ移動するのが普通と思いきや、足手まといになるため、自決してしまうのである。妻、千重子の辞世の句が有名で、
なよ竹の風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ
風にたわむなよ竹のような女の身であるが、なよ竹にも折れない節があると言う意味だ。
自決した人は他にも大勢いて、会津の底寺からを感じさせる。
城の近くには、新撰組の斎藤一の墓がある。会津藩は持たないと判断し、北海道へ退却する土方と別れ、最後まで会津に残り、幕末を生き延びている。明治維新後は、藤田五郎と改名し、警察官として活躍する。
幕府軍として戦ってきた斎藤が名前をかえてまで新政府の組織で働くのは不思議な感じもするが、他にも会津藩にはそのような人が多い。有名なのは。佐川官兵衛、山川浩だろうか。どちらも幕末期は、幕府軍として、薩摩と戦い、明治では西南戦争で政府軍として、薩摩と戦っている。会津藩は、戊辰戦争で敗れた後、青森の斗南に移籍させられ、そこで極貧生活を送っていた。そんな生活から抜け出すためには、近代国家として軍事力増強になりふり構っていられない政府が募集した警察、陸軍の職しかなかったのだろう。












